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2022年、令和4年は松本清張没後30年だそうで、松本清張原作とうたった映像化作品を多数観るチャンスがありましたので、この機会に未読の原作本と合わせて楽しもうと、
私も清張沼にハマってみる?キャンペーン(キャンペーン?)
を始めました。
今回はそのきっかけともいえるテレビ番組について書いていきます。
よろしくお願いいたします。
先人たちの底力 知恵泉
令和4年、松本清張没後30年ということで清張沼にハマってみようと思ったきっかけの一つに、「知恵泉」を観たというのがありました↓
この番組では以前、江戸川乱歩を取り上げた回で松本清張についても触れていました↓
ですので今回も楽しみにしておりましたが、私が驚いたのは
「今回松本清張の知恵を読み解くのは、みうらじゅんさん」
だったこと。
”新たなジャンル”を創り出せ
1909年、太宰治と同年に生まれた松本清張が小説家デビューしたのは、清張41歳の時。
”社会派ミステリー”という、新たなジャンルを創り出し、それまでの清張曰く「お化け屋敷」の世界だった探偵小説、推理小説を「リアリズム」の世界に引き出したのでした。
ここでも江戸川乱歩との比較があり、
「乱歩の小説では明智小五郎という人並外れた天才名探偵が主人公なのに対し、(清張の)『点と線』の主役は、しがない地方の老刑事と警視庁の若手刑事。実際に居そうな人物ですよねえ」
「さらに乱歩が殺人鬼や怪人が登場するなど、現実離れをした猟奇的な事件を書いたのに対し、清張が『点と線』で書いたのは官僚の男と水商売の女性の心中。実際に起こりそうな事件から謎解きが始まります」
「ほかにも鉄道や時刻表といった、日常的なものをトリックに使うなど、読者の生活に近い、リアルな現実を描くことにこだわりました」
と語られます。(番組より)
一部のマニア向けだった推理小説は清張によってより多くの読者に読まれるようになったのです。
この”社会派ミステリー”という新たなジャンルを創り出した、清張の知恵その1、
”憧れ”よりも”足元”を見つめろ!
松本清張は、”11円の給料から3円をはたいて”写真を買うほどの芥川龍之介ファンで、純文学作品をむさぼるように読んでいたそうです。
新聞社に就職し、広告部の意匠係(広告原稿のレタリングやカットを描く)となった清張は厳しい学歴差別を受け「今に見ていろ、決して負けないぞ」と思い、生活のくるしさから抜け出そうとして書いたのが小説だった、と番組では紹介されます。
そしてその小説が芥川賞を受賞し、清張の憧れた純文学の世界への道が開けたにもかかわらず清張は、文学好きの一部の人々に向けた作品ではなく、大衆に読んでもらえる作品を書くことに決め、
「文章━(中略)
結局、平明で簡潔なものを志した(中略)
あまりに凝った文章は
内容にはいるに
邪魔になるような気がする」(私の小説作法)
ここでみうらじゅんは、『巨人の星』の左門豊作のモデルは松本清張だとおっしゃいます。
「ルックスが似てるし、きょうだいが多くて全部の一家を支えていたり、九州から出てきたり、設定が全部一緒だから」
1960年、清張51歳の時に『日本の黒い霧』を発表、「帝銀事件」「下山事件」など戦後日本の闇とされていた事件とGHQの関係に迫りました。
1964年、55歳の時『昭和史発掘』の執筆を開始、二・二六事件など戦前に起こった事件の新事実を次々と発掘、”昭和史”という新たなジャンルを切り開いたと言われています。
そんな清張を支えていた知恵その2、
”独学”のススメ!自分の発想を大切に!
清張は太平洋戦争の最中、現在のソウルで見つけた英語の教科書で英語を学んだり、考古学も独学で勉強し続けたそうです。
57歳の時、連載を開始した『古代史疑』は専門家からも一目置かれるほどでした。
松本清張ご本人のの映像が流れます。
「私の場合は、小説以外に古代史などをやっていますけど、決して権威の説に全面降伏するわけではなくて、必ず疑問を持つ。
疑問を持つからには、それに関連してずっと調べていく。(中略)
学校教育を受けなくても、これだけのことはやってみたいと、成功するかどうかは別として努力だけはしてみたいという気持ちはずっと持っていますね」
また「清張通史」インタビューでは
「歴史という学問が
専門家の独占になってはいけない。
学問は国民全部のもの」
という言葉を残しています。
69歳で飛鳥文化の起源をペルシアに求め、イランにまで調査の足をのばした清張。
「最後まで執念を燃やすこと、そして最後まで何かに向かってチャレンジする、挑戦するという気持ちが一番大事じゃないかと思って」(1991年放送「ミッドナイトジャーナル」)
みうらじゅんは松本清張の”独学”について
「元祖マイブーム」
と仰られます。
「自分の中でとってもブームなことは、うまく伝えたいワケじゃないですか。
ゴムヘビが今きてるとかね
何でゴムヘビが寺の参道にあるんだ?とかいうところに
だんだん行くんですよ。
ゴムヘビと一緒に、ゴムワニも売ってると。
そのゴムワニは、実は元々はガンジスの川の神のクンビーラ(インドのワニが神格化した水神)じゃないかっていうとこまで考察していくんですよ。
それがまた楽しいんだけど
またクンビーラが日本で金毘羅になって
参道にゴムワニが置かれることは正当だったという
自分の理論ができた時に、すげえ「やった!」みたいになるんですよ」
みうらじゅんの知恵
「好きなものはあっちから飛び込んでこない」
好きなものが見つからない人は、(好きなものが見つかるのを)待っているけれども、清張は好きになろうとしている気がする。さらに好きになるためには、好きになろうという気がないとなれない━
人気作品を生み続ける仕事術
仕事術の知恵その1、
どんな相手からも学ぶべき点を見つけろ!
番組では、遅刻してきた新人編集者に時計を買い与えて遅刻することのデメリットを諭したり、女性編集者に女性のファッションについて積極的にたずねる清張のことが語られます。
「私の場合は女性をよく知らない、経験不足でして
ですから女性の愁雲(しゅううん=憂いや悲しみのある心境の例え)を描くところまでいってない
ただ、女性を断片的にみることはしばしばあるわけで
想像力が断片と断片の間を埋めていく
そこがひとつの作家の主張にもなるんじゃないかと思いますね」
多くの女性編集の方々から様々なことを学んだ清張は、それまであまりなかった女性が主役の推理小説も多く執筆しました。
「どちらかというと屈折のある、そして欠点をさらけだすような女性を書いた方が
まず人間として浮き彫りにできる
女性としても生き生きとそこのところが出るんじゃないかと」
『黒革の手帖』は、1978年、清張が69歳の時に連載を始められました。
預金係として銀行で働いていた元子が、横領した金を資金に銀座のクラブのママに転身。さらに、金持ちの男たちを相手に野望を膨らませていく姿を描いています。
みうらじゅんは
「悪女(を描くの)がうまいんでね
どこで情報を得てるのかが
僕はもうすごい興味があった」
「『点と線』の時って旅雑誌(がブーム)だったじゃないですか
あのころ高度成長期で、ディスカバージャパンとか後にね
次、多分婦人雑誌がすごい主流になったんですよ
男性誌より婦人雑誌がものすごい脚光が浴びるってこと
それをよげん(予見)したのか、それにのっかったのかわかんないけど
いつも雑誌の時代とずっとリンクしている人だと思うんですよね
今一番売れてる本にのせてるというか」
と、清張が様々なジャンルを描いた背景について仰っていました。
清張は作家生活およそ40年の中で、1,000を超える作品をのこしました。
この超人的な仕事量をこなす、原動力となったものは何なのか━
「書くといったところで私の場合はね
小説も書き、その小説もいろいろ分野がありますから
ちょっと飽いてくるわけですね」
(NHK女性手帖「空洞の古代史」昭和54年1月10日放送)
実は飽きっぽかったともいわれる清張の知恵その3、
”交換作業”でいつも心を新鮮に!
清張は自身の仕事術を「交換作業」と表現しています。
「同じ小説を書いていてもですね、極端に言うと
一方では歴史小説を書く
一方では現代小説を書くと
代わりばんこに書いていく
歴史小説ばかり書いていると飽いてくるのがですね
現代ものに移るとそこが新鮮であり
交互にやるとどちらも新鮮で気分が乗ってくる
ということになりますね」
1960年には、
ノンフィクション『日本の黒い霧』
小説『黒い福音』
小説『球形の荒野』
小説『わるいやつら』
小説『砂の器』
小説『歪んだ複写』
小説『高校生殺人事件』
小説『考える葉』
小説『山峡の章』
小説『異変街道』
併せて10本もの作品を並行して執筆されていたそうです。
また、清張は短い単位の昼寝が得意と仰っていたそうです。
「頭の切り換えを意識的になさっていたのではないか」
と、当時の担当編集者の田中光子さんは語られていました。
執筆以外もことにも次々と挑戦、清張原作のドラマ作品へのご出演もなさっておられました。
NHKこの人「松本清張ショー」(昭和57年4月8日放送)では
「あれはやっぱりね、私は小説だけですからね
テレビ、あるいは芝居のことも書かなきゃいけない
そうするとこういう風にテレビに出ますとね
スタジオのね雰囲気だとか
或いは俳優さんの画面に出ない裏側のねあの色々な動きとかいうものが非常に参考になるんでね
机の上に座っててそういったものは見られませんから
すすんで俳優役を買うわけですね
これも取材のためですね」
この映像では司会の黒柳徹子が
「松本清張さんのNHKの出演料でございますけれども
たのきんよりちょっと高くて
郷ひろみさんよりちょっと安くて
新沼謙治さんとだいたい同じということでございます」
と仰っていました(笑)
みうらじゅんの知恵
断ったら何も始まらない
断ったら何も始まらないけれども、ちょっとこれ無茶だなということでも、いいんじゃないですか、やると言ったからにはやらなきゃならないところまで追い込むのも手法なんじゃないかな、選り好みしていたら清張さんみたいにはなれない━
清張が晩年に取り組んだのは『神々の乱心』(未完)
ノンフィクションで描き切れなかった昭和の闇に、新興宗教を題材にした小説で迫ろうとした作品。
もう一つの未完の原稿『江戸綺談甲州霊獄党』
江戸時代に、医者・発明家・蘭学者などとして活躍した平賀源内を描いた作品だそうです。
みうらじゅんが語る松本清張
みうらじゅんについては、「笑う洋楽展」を視聴したり、ご著書も何冊か読んだことがありましたが、みうらじゅんが清張作品をほとんど読破したほどの松本清張ファンだとは、「知恵泉」の放送を観るまでつゆ知らず。
清張が好きすぎて?このような番組も↓
映画史に残る名コンビ
番組では先ず野村芳太郎監督と松本清張の組み合わせを、怪獣映画でいうところの円谷英二&本多猪四郎の例えを出し、芳太郎・清張コンビが送り出した作品がどれだけ面白いかを熱弁。
「自分が隠したいことが、後ろメタファーが、積もりに積もってアンド偶然でね、気が付くと崖に立ってる。」
その崖とは、『ゼロの焦点』のラストシーンに出てくる崖のこと。
生き地獄へのカウントダウン
みうらじゅんは、この『ゼロの焦点』のラストシーンがものすごい好きで、
「気が付いたらもうね、崖のことばっかり考えてた」
のだそうで。
みうらじゅんといえば、”マイブーム”でおなじみ、私自身みうらじゅんの「崖っぷちブーム」は何かで耳にしたことはありましたが、みうらじゅんご自身が新潟県から山口県まで日本全国の崖を回られ、一番グッとくるグッとクリフは、石川県能登金剛にあるヤセの断崖であったことから、『ゼロの焦点』につながっていきます。
曰く、
「清張作品は既婚者になった時から効く━守るものができた時に人は隙ができる、そこを清張が厳しい目で見ている。秘密とか隠し事がある人には、ホラー。」
だそうで、清張地獄は生き地獄、となるようです。
みうらじゅんご解説の「清張地獄の構造」=清張の世界というものがあり、
「戦後どさくさ」「GHQ統治下」のキーワードから『帝銀事件』
「金」「黒幕」で『わるいやつら』『迷走地図』
「バー」で『黒革の手帖』
「地方紙」をよく清張ご自身が読まれていることを語り『地方紙を買う女』や、俳句、カメラといった清張のマイブームにまで言及。
「逃亡」「列車」「時刻表」で『点と線』
「不倫」「目撃」「家政婦」で「家政婦は見たシリーズ」(『熱い空気』)
「アリバイ」「映画館」で『砂の器』
霧プロダクション
「霧プロダクション」とは、松本清張が映画・テレビの企画制作を目的に設立したプロダクションだそう。私、これも初めて知りました。
みうらじゅん曰く、テレビドラマはぬるい。
ので、是非とも霧プロダクション制作の映画作品を(できればドラマより先に)観てほしいとのお言葉でした。
他に紹介された映画作品は
『張り込み』
『影の車』(潜在光景)
『鬼畜』
『疑惑』
がありました。
これらのお話は『清張地獄八景』にも載っているとかいないとか
船越英一郎との対談があったり、非常に面白いです。
清張沼に挑戦中
さて、以上の番組を観まして。
みうらじゅんがそれほど熱く語るなら、
いやそれよりも、
みうらじゅんが松本清張作品のほとんど読んだというのを耳にして、なんとなく悔しいような気持ちになりながら、そんなら一丁私も観てみよう、読んでみよう、と奮起?したワケです。
ということで、2022年8月から一人清張沼キャンペーン(キャンペーン?)を始め。
これまでのところ、というか、清張沼以前にすでに『疑惑』は視聴済み、映画と原作では相違点が多いのですが、それぞれに楽しんだ作品でした。面白い!↓
『砂の器』も映画と原作との違いが多く、こちらは私は原作の方が面白いと思いました↓
映像化作品を観てから原作を読むというスタイルで始めてしまったこのキャンペーンでしたが、効率が悪く💦
特にドラマ化作品は同じ原作で数作品作られていることが多いので、私としてはつまらない内容(あ。でも不倫とか愛人とかもう食傷気味)のものを何度も観ることが苦痛になって、清張沼に片足を付けただけでやめたい気持ちにもかられましたが、みうらじゅん言うところのDS(どうかしている)まで、好きになろうと追い込んでいきたいと、この記事を書いていて決意を新たに致したところでございます。
※以上全て敬称略
最後までご覧いただき、
ありがとうございました😄
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