ブログを始めてから乱歩づいてる、猫目宝石@nazekiniです。
”猫目宝石”の名の由来は夏目漱石なのに。
さて、先日Eテレ「知恵泉」で乱歩がとりあげられるとのことで試聴。
いちいち頷くことばかりで面白かったので記事にいたします。
よろしくお願いいたします。
「先人たちの底力 知恵泉」とは
「先人たちの底力 知恵泉」とは、Eテレで毎週火曜よる10:00から放送されている番組。
”知恵”の”泉”と書きますが、「ちえいず」と読むようです。
この番組は、仕事で悩んだり、壁にぶつかったりした時に、歴史上の人物の様々な知恵から学んでいこうという、歴史教養ドキュメンタリーです。
私にとって火曜は買い物日でして、出先でみかける再放送を観ては「ああ、面白そうなのに録画しておけばよかった」と臍を噛むことが多く(そんなに?!)
ですので、今回本放送で江戸川乱歩が取り上げられることを嗅ぎつけたのは、まさに奇跡(オーヴァーな)
江戸川乱歩(前編)~好きを仕事にするには?~
今回のテーマは「好きなことを仕事にするには?」ということで、取り上げられた人物が江戸川乱歩。
”誰もが知るキャラクター(明智小五郎、怪人二十面相)を生み出し、ミステリーというジャンルを日本で確立した人物~小学校の図書館に必ず全集あったよね~それが江戸川乱歩”
https://twitter.com/nazekini/status/1195524991120314368
番組始まっていきなりでましたよ、あの毒が沁みていそうな表紙の本が↓
↑ポプラ社の江戸川乱歩全集。
江戸川乱歩の生まれ育った時代、探偵小説は翻訳物が主流。
その上低俗な読み物とされていたそうです。
「探偵小説家は日本では食べていけない」
そう思った江戸川乱歩は、大学生の時にアメリカに渡って探偵小説家になることを考えましたが、渡航費用がなくあきらめ、貿易会社に就職するも、夢をあきらめきれず一年で退職。
結婚後も転職を繰り返し、28歳で親のところに出戻ったそうです。
出戻った家で、こそこそと探偵小説を書いていたという話が載っているのが『探偵小説四十年』
そんな江戸川乱歩でしたが、大正14年(1925年)『屋根裏の散歩者』で一躍流行作家に。
ところが、昭和14年、傷痍軍人と妻との関係を描いた『芋虫』に対し、内務省が全編削除命を下します。また、探偵小説は犯罪を誘発するとし、それ以前の作品も発売中止となり、およそ10年休筆を余儀なくされたそうです。
戦後「少年探偵団」シリーズで見事に復活した江戸川乱歩。
一体どうすれば江戸川乱歩のように好きなことを仕事にし、生涯をかけることができるのでしょうか━
乱歩の生き方から好きを仕事にする知恵を読み解くのは、芸人、編集者、ミュージシャン、司会者の顔を持つマルチクリエーターいとうせいこう
いとうせいこう | 【公式】株式会社キューブ オフィシャルサイト
いとうせいこうは、日本初くらいのラッパー↓
昭和63年(1988年)三島由紀夫賞候補作となった『ノーライフキング』で小説家としても有名。
「どれも好きで始めた仕事ばかり」
また、江戸川乱歩のお孫さんであられる平井憲太郎がご登場。
昭和9年から昭和40年まで江戸川乱歩が住んでいた邸宅「江戸川乱歩記念大衆文化センター(旧江戸川乱歩邸)」
その平井憲太郎が、2万冊ともいわれる江戸川乱歩が集めた本のある蔵を案内してくださいます。
江戸川乱歩は、戦後洋書を集めたそうで、そのコレクターぶりは作家仲間の間でも有名だったそうです。
また、ラベルを手作りして本の背表紙に貼ったりするなど、細かく分類もされていました。
そんなことから元祖オタクなんじゃないかなと、お孫さん。
「好きを仕事にする」知恵その一
そこで、「知恵泉」のテーマ”知恵その一”
とことん何かを愛する「オタク」になれ
『続・幻影城』には、江戸川乱歩自身が読んだ、探偵小説短編のトリックカードを4、500採集、探偵小説883の作品のトリック分類表を作ったというお話が収録。
↑こんな風に分けたんだと。テレビ画面から失敬~
また「 貼雑(はりまぜ)年譜」という自分史を作ったり。
そこには、生まれた家の間取りから書いてあり、引っ越しの履歴も載っています。その数なんと46。つまり、46件目に当たるのが旧江戸川乱歩邸というワケです。
もう一人のゲストは江戸川乱歩を研究されている、金城学院大学教授小松史生子(こまつしょうこ)
小松教授によると、江戸川乱歩は
「自分自身に興味があり、自分の人生を自分で編集する」
”自分の物語を作りたい”━
ここでいとうせいこうが
「好きなことは食っていくいかないではない」
と仰られ、
「好きだからやっているだけ
そのレベルでやる人が長く食ってる
好きなことは自分の身を救う」
と続けます。
「好きなことはへこたれない」
と平井憲太郎。
ここでまたいとうせいこう
「江戸の粋な人や酔狂な人がすべきことが二つある
集めものと習いごと」
と話すと、小松史生子教授が、江戸川乱歩の収集癖についてのエピソードを語られます。
江戸川乱歩は、「幻の女」(ウィリアム・アイリッシュ作)という本をずっと探していたそうですが、やっと見つけた時に他にも買い手はいたけれども、タッチの差で入手できたことを記録しているそうです。
江戸川乱歩がただのコレクターで終わらなかったのには、”分類して何かを作る”エディターの感覚があったといとうせいこう。
また、江戸川乱歩が小説を書きだした頃は探偵小説黎明期だったことから、江戸川乱歩自身が「作家がいないなら自分で書こう」と書き始めたと小松史生子教授。
また、江戸川乱歩から面白いエピソードが語られます。
『白昼夢』という作品に”死蝋”が出てきますが、江戸川乱歩は、先輩である医者で探偵小説家の小酒井不木に手紙で死蝋の作り方を問い合わせたとのこと。
個人的に「でもまちがっちゃったんですよね」というお言葉にムム?となりキニなりましたが、何を間違っちゃったのかは不明、ちーん。
「好きを仕事にする」知恵其の二
江戸川乱歩と同時代の作家柴田錬三郎の作品数は1130なのに対して江戸川乱歩の作品数は140
”書いていたのは実質14年”と江戸川乱歩。
これは、江戸川乱歩の逃亡癖にも関係があり、そこで”知恵其の二”
つらくなったら「逃げろ!」
江戸川乱歩の逃亡癖は、中学生時代から。
外で遊ぶより本が好きだった江戸川乱歩は、いじめに逢い学校嫌いとなって、学校には半分しか出席しなかったそうです。
その一方で好きなことには積極的、16歳の時には自身で雑誌を発行したそうです。その時のペンネームは笹舟。
働き出してからも、8年の間に14、5回転職、ラーメンの屋台をひいたことも(!)乱歩ラーメン🍜食べてみたかった!生まれてないけど。
大正12年(1923年)28歳のとき探偵小説『二銭銅貨』でデビューします。
『二銭銅貨』についてはこちら↓
しかし、当時新聞に連載していた『一寸法師』を書き終わると休筆宣言して放浪の旅へ。
『一寸法師』は映画化の話も出たほどの人気作品でしたが、江戸川乱歩自身は締め切りに追われ構成がうまくいかなくなったことなどから出来に不満を持っていたのでした。
ところが、江戸川乱歩はそうした”逃亡”のあとにヒット作を生んでいるのです。
最初の休筆から復帰した時の作品『陰獣』(昭和3年1928年)は横溝正史をして「乱歩の最高傑作」と言わしめています。
また、3回目の休筆後の昭和11年(1936年)に書いたのが『怪人二十面相』
ここでまた、小松史生子教授より面白エピソード
一寸法師の後の放浪は横溝正史が追ってきたそうで、江戸川乱歩は横溝正史に名古屋でつかまり、当時横溝正史が編集していた雑誌『新青年』(1920年創刊~1950年)に書かせたのが『陰獣』とのことでした♪
初めての長編『孤島の鬼』(昭和4年)は、鳥羽の辺りを放浪した後に発表。
『孤島の鬼』といえば高階良子『ドクターGの島』↓な私。
”好きを仕事にする極意とは”という質問がいとうせいこうに投げかけられます。
それは「ずっと好きでいること」
江戸川乱歩のお孫さんの平井憲太郎が
「何をやっても楽しみをみつけるのがうまかった」
と仰られたことを受け、いとうせいこうが
「嫌いなものを好きになるアイデアが思いついたら自分の居場所がみつかる」
と続けて前編は終了いたしました。
※以上全て敬称略
最後までお読み戴き
ありがとうございました🍀
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