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ミステリ好き、#猫目宝石です。
「先人たちの底力 知恵泉」で江戸川乱歩(敬称略)がとりあげられるとのことで試聴しました。
前回、後編について書いていたのですが、長くなってしまったので中断↓
本日はその続きを書いてゆきます。
よろしくお願いいたします。
「先人たちの底力 知恵泉」とは
「先人たちの底力 知恵泉」とは、Eテレで毎週火曜よる10:00から放送されている番組。
”知恵”の”泉”と書きますが、「ちえいず」と読むようです。WHY?
この番組は、仕事で悩んだり、壁にぶつかったりした時に、歴史上の人物の様々な知恵から学んでいこうという、歴史教養ドキュメンタリーです。
江戸川乱歩(前編)は「好きを仕事にするには?」でした
「先人たちの底力 知恵泉」江戸川乱歩の前編のテーマは「好きを仕事にするには?」でした。
番組内容はこちら↓
好きを仕事にするには、
- とことん何かを愛するオタクになれ
- つらくなったら逃げろ!
という二つの知恵を江戸川乱歩の生き方から学びました。
続く後編は「新たなジャンルを切り開くには?」
https://twitter.com/nazekini/status/1198175387185926144
「新たなジャンルを切り開く」知恵其の二
江戸川乱歩に学ぶ、新たなジャンルを切り開く知恵其の二は、
異なる考えの人こそ大切にしろ
松本清張の登場
ミステリー界の二大巨星と言われる江戸川乱歩と松本清張。
江戸川乱歩は、探偵が事件を解決する「本格推理小説」で、探偵小説ファンを子どもたちにまで広めました。
一方、松本清張は社会性のある題材をリアルに描く「社会派推理小説」で、サラリーマンや主婦層にまで探偵小説ファンを広めました。
松本清張は、「二銭銅貨」「D坂」で探偵小説の面白さを知ったと語る一方、江戸川乱歩や横溝正史が作り上げた本格推理小説を「お化け屋敷」と批判していたそうです。
「乱歩は初期の短編だけ書いて死んでいたら、とんでもない天才がいたということになったよ」と、おそれげもなく公言していた━2019年2月7日号週刊文春 小林信彦『本音を申せば』より
江戸川乱歩を慕う横溝正史などから探偵小説の進歩向上を図るクラブを作ろうという意見があがったことがきっかけとなり、昭和22年1947年探偵作家クラブ設立(現日本推理作家協会)、初代会長に江戸川乱歩が就任。
江戸川乱歩は、探偵小説を文学と認められる芸術にしたいという思いがあったそうで、昭和22年2月号の探偵雑誌『The LOCKロック』誌上で松尾芭蕉をたとえに
「探偵小説を至上の芸術たらしめる道はあたかもこの芭蕉の道のほかのものではない。
ああ、探偵小説の芭蕉たるものは誰ぞ」
という言葉を残しています。
(これについて、江戸川乱歩を研究している小松史生子金城学院大学教授によると
「松尾芭蕉は花鳥風月を詠む様式美に対抗し(縁側に鶯の糞があるとか)庶民的な風景を俳諧の世界に持ち込んだ、つまり、平凡な風景を芸術の世界に持ち込んだ」
と説明されています)
そして、昭和23年1948年探偵作家クラブ賞を制定します。
現在、日本推理作家協会賞とされているその賞は、その年に発表された最高のミステリー小説に与えられるミステリー作家憧れの賞となっています。
横溝正史『本陣殺人事件』坂口安吾『不連続殺人事件』といった本格推理小説だけでなく、
小松左京のSF『日本沈没』nや星新一の『妄想銀行』も受賞しています。
昭和26年(1951年)松本清張が登場します。
デビュー作『西郷札』は直木賞候補となり、翌昭和27年(1952年)『或る『小倉日記』伝』で芥川賞受賞、昭和30年(1955年)『張り込み』でミステリーに進出します。
昭和32年(1957年)『点と線』では、役人と情婦の心中事件が時刻表をトリックに使った殺人だったというストーリーに、それまでの探偵小説と違うリアリティーのある動機と説得力のあるアリバイ崩しでミステリーファンをうならせます。
『 乱歩と清張』の著者である文芸評論家郷原宏によると、
”松本清張は昭和30年くらいからミステリーをかきはじめるのですが、その時に重視したのは犯罪の動機”
”それまでの探偵小説はあらすじ中心で、動機はどうでもよくて、どう面白いトリックを見せるかに重点がある、と動機が軽視されていた”
”動機を描くことで犯人の人間像を描くこととなり、犯人の生きた時代背景や社会を描くことに通じる”
松本清張は
「それまでの探偵小説は掛け小屋のお化け屋敷」
と自身のエッセイで語っているそうです。
”架空のお話になってて人を驚かす話ばっかりじゃないか、戦後(昭和30年代)の読者は納得しないだろう”と、持って回った言い回しやおどろおどろしいような場面設定を排除し、シンプルな文体で戦後の新しい事件を描いた━
編集者としての江戸川乱歩
同じころ、売り上げが低迷してきた推理小説雑誌「宝石」から江戸川乱歩に編集長の依頼があり、それを引き受けた乱歩は、松本清張に執筆依頼し「宝石」の立て直しを図ります。
昭和33年(1958年)3月号から『ゼロの焦点』連載開始、ところが、松本清張は5回目で原稿が半分しか書けず、6回目は休載してしまいます。
これについて、江戸川乱歩と松本清張の対談が「宝石」昭和33年7月号に載ります。
清張
”できるだけ本格(推理小説)の読者にも満足してもらいたいという気持ちがあるのでね。このふた月ほど、たえずそれを考えているのだが七月号の締切りまでに、いろいろ念頭にある筋の運び方のうちに、どれにするかという決心がつかなかったのです。まことに申し訳なく思っています”
乱歩
”ことさら本格的にと考えられる必要はないじゃないですか。あなたのサスペンスに富んだ、リアルな作風を、やっぱりそのまま出していただきたい”━『これからの探偵小説』より
そして、江戸川乱歩は読者に向けて
「松本さんがこの作品に全力を傾けているための渋滞なのである」
了承してほしいと呼びかけているそうです。
『眼の壁』『点と線』で社会派ミステリーブームを起こした松本清張。
それをみて江戸川乱歩は
「こういう作品を待っていた」
「一人の芭蕉の可能性を清張に見出している」
と語ったと郷原宏。
『ゼロの焦点』の時代背景は「もはや戦後ではない」と言われた昭和30年代。
主人公はサラリーマンと主婦、当時の読者層に重なるものでした。
その内容は、結婚したばかりの夫の失踪から始まった殺人事件の動機が占領下の悲劇にあり、”本当に戦後はおわったのか”と問いかけるもので、江戸川乱歩が待ち望んだ芸術の域に達したミステリー小説となりました。
(これについて小松史生子は
「清張は平凡という言葉をとても大事にした作家」
「日本の近代文学は平凡なものを描くのが芸術・純文学であるとされていて、清張はそこにかえった。そのことでミステリーが芸術に高められた」
と解説されました)
その後、江戸川乱歩は『宝石』に、曽野綾子、石原慎太郎、吉行淳之介、火野葦平ら文壇作家の原稿も獲得してゆきます。
昭和35年(1960年)江戸川乱歩は体調を崩し、『宝石』の編集長を辞任。
以後売り上げが低迷し、『宝石』は昭和39年(1964年)廃刊となり、翌年昭和40年(1965年)江戸川乱歩は帰らぬ人となります。
松本清張による弔辞は、
「われわれが推理小説を志すようになったのは先生の作品に魅せられ大きな影響を受けたからであります。先生の下に戦前には一再ならず優秀な作家が輩出し戦後にも幾多の新人群が生まれ、推理小説は日本文学の中に独特な分野を確立いたしました」
といったものでした。
自身を批判していた松本清張を起用したことで、江戸川乱歩は目標を達成しました。このことから、異なる考えの人こそ大切にしろという知恵になったワケですね。
しかしながら、私の感想といたしましては、ミステリーオタクここに極まれり。
松本清張と考えが異なるという話以前に、江戸川乱歩自身が松本清張のミステリーが読みたかったんじゃあないかと。
個人的には前編の方が面白いと思いました(笑)
最後までお読みいただき、
ありがとうございます🍀
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